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年頭に今年こそは、と抱負のようなものを意気込んでみるものの、なかなか思うように事は運ばない。年の初めに、いつも同じことを言っている気がするけど、日にちが経つのがますます早く感じられる。お正月ボケ以来ぼうっとしていたら、もう1月も終わりだ。人生は短く、やるべきことはあまりにも多いということか。月末は父の三回忌だった。父の代から新しく建墓することにしたので、納骨も兼ねている。お墓を建てる、なんて一生に一度どころか何代に一度のことだから、いろいろと紆余曲折はあったけれど、浅草のお寺に墓所を求め、半年がかりでお墓が完成した。墓石に刻んだ「南無阿弥陀仏」の文字のデザインは仕事柄私が担当。責任重大な上に、私の生涯のなかで最も末代まで残る作品になるに違いないと思うと、予想以上にしんどい作業だ。まさかお墓の文字をデザインすることになるなんて思ってもみなかったけど。さて、無事にお墓が出来てみると、今まで感じたことのないような感覚、どこか奥底のほうで不思議な安定感を感じた。これこそ終の住み処ということなんだろうか。新品のお墓に父のお骨を収め、手をあわせる。束の間、彼岸に行った父を想うが、視線を移せば、お寺の塀のすぐ向こうには浅草の町の賑わいがある。ここは、寺町独特の雰囲気なのか、生と死が自然に馴染んで表裏一体となった町である。よく生きるということは、その終わりまで生き抜くということ。メメント・モリ----死に思いを馳せると、生がいっそうくっきりと彩られる。この人気の多い場所のお寺を選んだのは、(宗派の問題もさることながら)お墓参りが気楽にできるだろうということと、老舗の食べ物屋がたくさんあって、食いしん坊だった父に似つかわしいと思ったから。家族だけの簡素な三回忌は、思惑通りしんみりすることなく和やかに済ませることができた。美味しいものも食べたし、仲見世をぶらついたりできたしね。これでまず今年の行事のひとつが片づき、ちょっとほっとしている。 先日、例によってイタリアの友人、アントネッラのアテンド。今回は日本は初めてというスタッフ、パオロが同行してたので、彼の要望で渋谷センター街に行くことになった。そしてプリクラのメッカ(本当に看板にそう書いてあった)で、プリクラ。実は、なんと私も生まれて初めてのプリクラ体験だった。ただ撮ればいいのかと思ったら、撮影後ラクガキやレイアウトだの、やたらすることが多くて疲れた。ともあれ、今や世界共通語である「MANGA」っぽいテイストがいたく気に入ったらしく、イタリア人たちは大興奮。まあ、ウケたからいいか。こんなことでもなければ、一生しなかったかもしれないしね。(以前、回転寿司を初体験したのも、外国人の友人をガイドした時だったっけ)それにしても、普段はなるべく来ないようにしている渋谷だけど、なんと猥雑で脈絡のない奇妙な町だろう。喧騒はあるものの、生きるエネルギーが空回りしているような、薄っぺらな感じ。イタリア人の目には、どんなふうに映っているんだろうな、と思っていたら「ブレードランナーって、ここ(渋谷)で撮影したの?」なんて真顔で訊かれて、軽く眩暈がしてしまった。彼にとっては素朴な感想だったのかもしれないけど、なんというか、ブレードランナー自体が相当古〜い映画だし、そこに描かれているのは「昔の未来」だし、と何重にも時差やブレがある。古くさいのか新奇なのかよく分からない。とりあえず、あの映画はすべてセットで撮影されたものであり、そのデザインのモデルのひとつにはなっているかも、と答える。いわれてみれば、駅前の大画面広告とか、薬局のネオンサインとか、ブレードランナーだよね。(どちらかというと歌舞伎町の方が近いけど)たしかに現実ばなれしたセットの中にいるような感じがするかもしれない。それに、渋谷の若者たちはどうも生身の人間ではないような気がする。交差点を行き交う群衆が、みんなレプリカントに見えたとしてもおかしくはない。その後は、原宿へ移動して居酒屋で食事。こういう酒の店みたいなところが、ポーションの少ない一品料理が多くて日本料理の紹介には都合がいい。日本初心者のパオロにアントネッラが先輩風を吹かせて、いろいろ講釈するのが面白い。刺身や豆腐、(好物の)お新香なんかを得意げに説明しているうちはよかったが、どこで聞き齧ってきたのかしらないが、江戸文化、ひいては「粋」だの「浮き世」について語りだしたのには驚いた。「ドルチェ・ヴィータってことかしら」と同意を求められてううっと詰まったけれど、間違いではないような。ただし、そこには世のはかなさ、つまり「憂き世」の意味も重ねあわされている。少し違うかもしれないが「VANITAヴァニタ」の意味もあるんだよ、とつけ加えておいた。そのニュアンスをイタリア語にするのは難しい。江戸っ子こそ、世の中を浮き世と見限り、駆け抜けるようにさっぱりと生き抜いた連中である。その鮮やかな生きっぷりが、つまり「粋」なんである。ややもすると、すぐに雑多なことに紛れて流されてしまう毎日。自分らしい1日、BUONA GIORNATAを生き抜くのは、そう簡単なことではない。月並みだけれど、今日という日を大切に生きたいと思う。 |
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