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11/05
ヴェネツィアの声
地球温暖化の影響で、年々紅葉の時期が遅れているらしい。おかげで、銀杏が色づいたと同時に、世の中はクリスマスのデコレーションが始まっている。こうやって、今年も過ぎていくのか。実はナターレに強引にヴェネツィアに行っちゃおうか、なんて考えも浮かんだんだけど、腰痛のことを考えて、無謀なことはできないという結論に。以前、凍りついたヴェネツィアのフォンダメンタで転倒し、痛い目にもあっているしね。残念だけど、来年までヴェネツィアはお預けだ。この間片づけものをしていたら、昔ヴェネツィアで録音したDATテープがごっそりでてきた。普段家で食事をしているときや、散歩の時に適当にテープを回して録ったものだ。録音した当時は、別に聴いてみる気も起こらなかったが、時間が経つと思い出は熟成されてくるものだ。掃除の途中だったけれど、懐かしくなってテープをデッキに入れてみた。すると、いきなり台所でこっちに話しかけながら鍋をかきまぜている(木べらでカンカンと音高く鍋のフチを叩いている)マンマの声が聞こえた。さすがにDATだけあって、天井の高いヴェネツィアの家に響く音の臨場感もそのまま、今マンマがそこにいるかのような感じ。そして、今はもうこの世にはいないパパ・ヴィットリオの声も入っていて、思わずはっとしてしまった。背後にはテレビのニュースの音も入っている。きっとお昼の支度をしていたのだろう、あたりにはトマトソースやパスタを茹でるあたたかい匂いがしていたにちがいない。縦長の窓からリネンのカーテン越しに柔らかい日差しがさしこんでいるのだ。数年前に過ごした幸せな時間がそこに留まっていた。音って不思議だ。その場の様子が目に浮かび、あっという間に気持ちがシンクロしてしまう。たくさんのテープのなかには、わざわざ早起きして録ったメルロ(クロウタドリ)の声や、夜明けを告げるカンパニーレの鐘の音のヴァージョンもある。運河の水音、ヴァポレットの行き交う音、時に襲うテンペスタの雨や風の音。ヴェネツィアは自動車がないので、こんな生活のなかに溢れる音が、とても心地よく響く。驚くことに、その町並みは18世紀の頃から殆ど変わっていないのだ。ヴィヴァルディの「四季」も、こうした環境の音を音符にうつしとったものなのだということが、ヴェネツィアにいると実感できる。やっぱり、ここは特別な場所なのだ。

ヴェネツィアでは、不思議なことがよく起こる。というか、奇妙な偶然や、神秘的なことが起こっても、それが至極あたりまえに思えてしまう。ヴェネツィアの魔力のようなものがはたらいている感じだ。昔々、お決まりの深夜の散歩に出た時、真っ暗な運河沿いの教会の尖塔から奇妙な声が聞こえてきたことがあった。声は細く長いメッツォソプラノのソルフェージュのようでもあったし、後から考えれば夜に啼く鳥の声だったのかもしれない。(そんな鳥の声はその後二度と聞かれなかったが)その時も、とくに怖い感じはせず、どちらかというと清浄な印象すら受けたのだった。ヴェネツィアに住む精霊みたいな存在があるのかも、と本気で思えたものだ。別なある時、日中道に迷って寂れた小運河のほとりに出た。そこには目立たない小さな画廊があり、窓際にまるで外を覗き見ているように、一枚の絵が置かれていた。それは怖くも不思議に美しい絵で、見るなり眩暈がするほど惹きつけられてしまった。道に迷ったのも、この絵に呼ばれたのだと思えるくらいに。暗い背景にたくさんの乳房と羽をもった女が浮かび上がっている。キマイラかセイレーンか、いずれにしても人を惑わす魔物だと分かった。あいにく画廊は閉まっていて、人の気配はない。仕方なくその場を離れたが、同じ日の深夜、コンサート帰りに前を通りかかると、なんと明かりが灯り、その下で一人の男が絵を描いているではないか!それが、この不思議な絵の作者との出会いだった。窓を叩いて声をかけ、中へ入れてもらってしばらく喋ったが、初対面とは思えないほど話が弾んでしまった。私と同じように、天使や古代の女神としての女の図像やイコノグラフィーに興味を持っているのだった。以来ヴェネツィアに行くたびに会っては、まるで旧知の友人のようにつきあっている。彼は、純血のヴェネツィア人、そして夜しか行動しない(当然絵を描くのも夜だけ)シニョーリ・ディ・ノッテだ。蝋燭の灯がよく似合う。彼に案内されて徘徊する深夜のヴェネツィアは、まさしくミステリーツアーという趣きで、いつも不思議な出会いと驚きに満ちている。彼自身も自分がとても内向的な性格で、およそ社交的でなく、こんなふうに友人ができたことは初めてだと驚いている。しかも相手はとんでもなく外国人である。面白いことに、彼に会うのはかならず深夜であり、だからというわけでもないが、一緒に写真を撮ったことがない。つまり、彼も訪ねた場所の写真も一枚もない。(ひょっとすると写真には写らないかも---というキャラではあるが)これに限らず、写真というのは肝心なものこそ写っておらず、別に写す必要もない気がする。頭の中にある映像のほうがずっと鮮明であり、本当の意味での記憶は写真に留めておくことはできないからだ。写真は記憶の手がかり、メモにしかすぎない。DATで記録を録ったのも、そんな思いがしたからである。カメラを構えたり、ヴィデオを回すと、撮っているこちらは情景から外れた存在になってしまい、おまけに撮るという行為自体にストレスを感じてしまう。結局のところ、一番印象深い場面はカメラには写っていないことが多い。ヴェネツィアは特にそうだ。あの場所の魔力はカメラには写らない。心の中にはくっきりと残されてるのだけど。星の王子様も言っているよね。「ほんとうに大事なものって、目には見えないんだよ」
ヴェネツィアの声