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11/04
ロスト・イン・トランスレーション
この頃、妙にフランスづいている。たまたまなんだけど、(パリに住む友人の頼みにより)初めて日本にやって来たフランス人をアテンド(デパ地下で買い物をしてウチですき焼き)したり、我が家の近所の或るフランス人宅で友人の個展があったり、はたまた在日3年になるフランス人の友人カップルが引っ越したので、その新居に招待されたり----と、さまざまなパターンのフランス人と話をすることが続いたのだ。彼らと話をする時は概ね英語。実をいうと、もともと私はイタリア語より先にフランス語をかじったはずなんだけれど、(微妙に似た部分のある)フランス語はどんどん後から入ってきたイタリア語に置き変わり、蒸発してしまったみたいなのだ。そういうわけで、仕方なく英語を話していて気がついたことがある。どうも最近の私の英語ときたらかなり怪しく、壊れ気味なのだ。あれれ?一体どうなっちゃってるのだろう。こう云うと、今までものすごく英語が堪能だったように聞こえるかもしれないが、そうではなくて、ごく単純な名詞やフレーズが思い出せなかったりするので、すぐ分かるのだ。この異変、今回のイタリア滞在に関係があるのか?

他のヨーロッパ人に較べ、イタリア人は圧倒的にイタリア語しか話さない。しかも、その多くが方言だ。同様にイタリア人はイタリア料理、そして郷土料理を食べていることが殆どで、ともかく自家撞着的な人々といえる。ヴェネツィアに通い始めて間もない頃は、イタリア語など皆目分からず、なんとか英語でコミュニケーションをはかろうとしていた。そういう場合はイタリア人とても、知ってるかぎりの英語を駆使してくれるが、いったんこっちが少しでもイタリア語が解すると分かるや、その理解力がどの程度だろうがおかまいなく、英語の方はさっさと放棄してしまう。もちろん、英語でのコミュニケーションはまだるっこしく、イタリア語にしかないニュアンスは伝わらない。そしてヴェネツィア通いも度重なるうちに、当然人間関係もよりディープになっていき、言葉もそれにつれてどんどん訛っていくこととなる。今回も容赦ないヴェネツィア語どっぷりの、かなりテンションの高い数週間を過ごしてきた。以前にも書いたが、私の語学は現場主義であり、勢いとパッションで成立している。つまり必要に迫られないと出てこない。もちろんボキャブラリーを忘れないように日常的に多少の努力はするものの、切羽詰まった状況にない日本では集中力に欠け、いまひとつ思うように喋れない。イタリアで何をあんなに喋ってたんだろという感じ。自分の言語中枢がどんなふうに機能しているのかわからないが、何かチャンネルみたいなのがあって、その場の人員構成によって切り替えている気がする。だから、英語、イタリア語、あるいはフランス語などを取り混ぜて喋るような場合には、うまくチャンネルが切り替えられなくて接触不良、混乱状態に陥ることがある。しかし、こういう各種言語混合で喋る場面は東京や(今回の旅行では寄らなかった)パリでは時々あるものの、イタリア、そしてヴェネツィアではあんまり起こらない。少なくとも、私の行く先はまったくのイタリア語のみの世界。最初のうちは(もちろんすべてではないが)すでに英語で知っている物事は、一度英語に置換して考えていたようだ。が、イタリア語に慣れるに従って、英語で考える手順が省略されたり、あるいははじめからイタリア語で認識するようになってきたらしい。だから最近、私の頭の中に英語が登場する頻度は以前よりぐっと低くなっているみたいなのだ。言葉は興味のある分野で覚えるのが一番の早道。私の場合は、当然台所で覚えるのが最も確実だ。台所にあるモノは、ダイレクトにイタリア語で覚えてしまっているので、置換作業を要しない。例えば鍋ははじめっから「PENTOLA」で、お皿は「PIATTO」なのだ。そうなると、お皿がPLATEであることは、すっかりどこかへ置き忘れてきてしまうらしい。で、「え〜、お皿って英語でなんていうんだっけ?」なんてことが起こるのだ。さすがに、まだ日本語の方は忘れたりしないけれどね。

つい最近、遅ればせながら映画「ロスト・イン・トランスレーション」を観た。この映画に共感をおぼえる在住外国人は多いようだけど、期待して見た割には、なんだか中途半端な印象だった。全体に漂うセンシティブなテイスト、旅先の外国でひどくナイーブになってしまう気持ちはよくわかる。でも、やっぱりアメリカ人てどこにいてもズレているんだよなあ。言葉の通じないせいで起こる、滑稽な行き違いが描かれているけど、それは実は言葉の問題じゃない。アメリカ人は、もっと自分の国以外のことも知らないとね。もっともこの映画、アメリカ人によるやんわりとした自己批判なんだろうけど。ただ、同国人同士だから言葉が通じる、意志の疎通ができると思ったら大間違いである。北イタリアのウーディネで、こんなことがあった。イタリア人の友人とバールで喋っていたら、そこへほんの顔見知りのシチリア人がやってきた。彼らはちょっとの間、言葉を交わしていたが、彼の強いシチリア訛りは私には全く理解不能。が、後で友人に聞いたら、彼女も分からなかったという。しかもそれは訛りのせいではなく、考え方やセンスが違うからだという。つまり「話の通じない奴」だということらしい。そんなことってある?と思ったけど、私にもおおいに思い当たる節があった。それは、この頃言葉の通じない日本人が多いからだ。一方的にかかってくる勧誘の電話、ミーティングでの意味のない発言、役所の窓口での応対、仕事先の電話の取り次ぎ、業者のエクスキューズ-----たしかに喋っているのは日本語だけれど、何を言ってるのか分からないし、どうやらこっちの言葉も伝わってないらしい。いわゆる共通言語がないのだ。異国にあって感じる「ロスト・イン・トランスレーション」より、こちらのほうがずっとコワイ。逆に、言語が違っても外国人の友人とは話が通じるのだから、不思議なものだ。
ロスト・イン・トランスレーション