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06/02
カルチョとお料理教室
父の入院騒動もひと息ついたところで、ワールドカップ。始まってみれば、やはり試合の放送時間に合わせて行動する日々だ。が、これを書いている時点ですでに日本もイタリアも負けてしまっているので、私としては燃え尽き症候群後の燃えかす状態。同様に我を忘れてカルチョの熱にうかされていた人々も、急に頭が冷えたのだろうか。日本が勝ち進んでいた間、停滞気味だった仕事の動きがやおら活発になったようなのは、気のせいか?当然ながらここ一ヶ月あまりため込んでいた仕事や雑事その他もろもろのことが想像以上に山積している。なんていうといかにも商売繁盛みたいだが、フリーで仕事をしているものの許容量の低さ、つまりすぐに目一杯になってしまうだけなのだ。まずは平常心に戻ったところで、端から片づけていかなくっちゃ。イタリアの人たちも悪夢のような敗戦のことはすみやかに忘れ去って、いつもの日常に戻ろうと努力しているに違いない。それにしても、さすがワールドカップ、各国の選手をはじめサポーターや報道陣等にそれぞれお国ぶりがうかがえて、そういうところもなかなか楽しめる。(我が家の「もう一度見たいあの場面」は、アイルランドチームサポーターのおじさんだ)

先日、お料理教室の先生というものに初挑戦した。とはいっても、料理教室をやっている知人にすべて仕切ってもらった企画に、ゲスト講師として招かれていっただけなのだが。とにかくお料理教室なんてまるで初めて、それも教えるほうだなんて。「先生」と呼ばれるのはおこがましくてひどく気がひけてしまった。料理の作り方そのものもさることながら、ヴェネツィアのふつうの家庭での食事や暮らしぶりについて話をしたほうが私らしくていいかなと思い、料理はごく簡単なものを選んだ。実際、イタリアの家庭料理は素材重視のシンプルなものが大半なのだ。それに、本の宣伝をしなければという目論見もあるし。前菜は焼き野菜のマリネ、それにアスパラガスと茹で卵、プリモピアットはムール貝のリングイネ、セコンドピアットはスズキのレッソ、つまり茹でたものにした。すべて焼いたり茹でたり、あらかじめ用意できるものばかり。出来たてを食べなければならないのは、プリモピアットだけだ。これだってソースは先に作っておくわけだから、食事を始めながらリングイネを茹でればいいので、あまり忙しいことにならないはずだ。食前酒のスプリッツを飲みながら、おおまかな手順を説明し、グループごとに手分けしてとりかかった。初めてのキッチンなので勝手が違うのと、20数人分をいっぺんに準備するのとで、ややまごついたところもあったが、一応なんとか予定通りに作ることができた。しかし、ここからが本題である。というのも、イタリア式の食事の仕方を紹介するのが眼目だからだ。

イタリア家庭での伝統的な食事のスタイル(共稼ぎの若い夫婦というような場合では、ちょっと違うだろうけれど)は、あくまでも前菜(アンティパスト)、プリモ、セコンド、つけあわせ(コントルニ)、サラダ(インサラータ)、デザート(ドルチ)というふうに順々に食べていく。それだから、第一の皿、第二の皿なんていう呼び方ができるわけだ。パンは最初から食卓に出ているけれど、プリモであるパスタやリゾットとセコンドであるメインの料理が一緒に並べられることはありえない。何故なら一般家庭の普段の食事では、まずお皿を2枚重ねて置き、上の皿で前菜やパスタを食べた後、その皿が下げられて初めてあらわれる下の皿で肉なり魚なりのセコンドを食べるからだ。これは食事の内容にはあまり関係なく、どんなにささやかな食事でもけっこう厳密に守られているようだ。例えば茹で卵にマヨネーズをかけただけのものやハムを一切れなんていうのでも、それはちゃんと前菜とみなされるのだ。それから会食する人たちのテンポは一定であることが望ましく、よっぽどのことがないかぎり誰かがひとりだけ先にパスタを食べ始めるなんていうこともない。まあ、これはパスタを茹でるタイミングとも関係があるんだろうけど。ただリストランテで、誰かプリモピアットをはしょる人(あまりおなかが空いてないまたは、かなり重たい料理をセコンドに選んだとかの理由で)がいたとしても、その人にだけ先に(パスタをとばして)セコンドが運ばれてくるようなことはない。基本的に目の前にある料理はひとつずつだから、食卓の上はいつも割とすっきりしている。(日本の旅館の料理みたいに全部がずら〜っと並んだりしたら、イタリア人は混乱状態に陥ることになる)それから幼児には許されるかもしれないが、セコンドを食べ始めた人が、もうちょっと食べたいからとパスタをおかわりなんていう逆流もしない。そしてデザートを出すのは、いったんすべての皿を片づけた後である。つまり時間的にも空間的にも常に一方方向なのである。例えば料理の皿を順にまわして取り分ける際にも、この法則は守られる。こちらの場合は食卓の上に十字が切られるのを避けるという慣習があるせいだけれど、隣の人へ一方方向にまわしていくのが自然に身についたマナーみたいな感じになっている。

さて、以上のようなことを説明しながらお料理教室での食事は粛々とすすんだ。後で出す予定のカフェやデザート用(ビスコッティにリコッタチーズとラズベリーソースをかけたもの)の食器が長いテーブルの片隅に用意されていたが、それも本日はイタリア式にのっとって、ということでひとまず調理台の方へ片づけた。何故イタリアではこうなのか、私にもよくわからない。ご飯とおかず、汁物を一緒に食べる日本式がどうも解せないというイタリア人の疑問と同じだ。どちらが合理的なのかという問題ではない。ちなみにイタリアでは常識とされているが、意外と知られていない食事のルールがいくつかある。例えば、食事のパンにバターはつけない(アンチョビやスモークサーモンのカナッペ等の例外はあるにしても)、魚介類のパスタにはフォルマッジオをかけない、カプチーノなどミルク入りのカフェを食後には飲まない等々。ユダヤ教やイスラム教の戒律のように禁止されているというわけではないが、違和感を与えることはたしかだ。その他、地方文化の集合体であるイタリアではその土地にしか通用しないスタンダードだらけ。すっかり日本人になじんだ感のあるイタリア料理だけれど、実はいろいろと違うのだというのを体験してみるのも面白いと思う。最終的には(周囲を不快にしない程度の常識を守ったうえで)その人の好みで自由にやればいいのだが、物事の決まりにはやはりその国が築いてきた文化に根づいた、それなりの理由がある。時にはそれにならい、決まりごと通りにしてみると、ナルホドといった発見がなにかしらあるはずだ。