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05/02
ジェットコースターデイズ
父が入院した。たまたま定期検診でレントゲン写真に映った怪しい影を精密検査するという名目で入院したら、間もなく診断が下されて驚愕し、さらに間髪なく手術の段取りになったかと思いきや、一体どういうことなのか深く考える猶予も与えられず、あれよあれよという感じで手術の当日を迎えてしまった。幸いにも今まで我が家族は入院や手術などに縁がなく、父本人も含め皆病院ビギナー揃い。急転直下の成り行きになんだかよくわけのわからないまま、家族交代の病院通いが始まり、病院側のスケジュールについていくのが精一杯だった。毎日一喜一憂しながら過ごす日々は、一家全員でジェットコースターに乗せられているみたい。ワールドカップ開催に盛り上がる世間の喧騒もまるで他の惑星の話のようで、ただひたすら疾走するのみ。手術そのものもさることながら、術後の数日というのもこれまたまったく予断を許さず心臓に悪い。なにしろなにもかもが初めての体験ばかりだから、一体次にどんなことが起こるか予測がつかないのが何より不安。途中でジェットコースターからゴムボートに乗り換えて、濁流を下っていくような気分になった。回復期に入れば、それはそれでさまざまな現実的な問題の対処に追われる。しかし、とにもかくにも無事に手術が成功し、退院の目処がついた現在の状況は神様にいくら感謝してもしたりないくらいだ。気がつけば、検査入院から退院予定日まできっちり一ヶ月の出来事である。

それにしても病院というのは不思議なところだ。とくにそこで入院生活を送る病棟には日常と非日常が混ざり合う独特の雰囲気があり、時間の流れも違っていて、別の空気を吸っているような気がする。どんなにお天気の良い日でも、病室の窓からの眺めはどこかぼんやりとした弱々しさを感じてしまう。一歩病院の建物のなかに入れば、そこは患者とその家族をはじめ医師や看護婦、医療技師や各スタッフで構成された大きな蟻の巣みたいな一箇の共同体、ようするに社会の縮図である。初めのうちはすべておっかなびっくりで、エレベーターに乗り合わせた患者の方々の様子やストレッチャーに乗せられた人を見ていちいち驚いていたけれど、人間なんにでも慣れていくものだ。しばらくするうち、売店のお弁当やお菓子にお気に入りができたり、購買部のレアな介護グッズに感心してみたり、食堂のメニュー選びに小さな楽しみを見つけたりと、それなりの工夫をするようになる。もちろん父の容態が芳しくない時にはとてもそんな呑気なことはいってられないけれど、非常時における精神状態の意外な順応性の高さに我ながら驚いたこともたしかだ。同室の患者の家族の方と言葉を交わす機会も増え、同病相憐れむとはまさにこういうことだと感じ入った。同じ方舟に乗り合わせた運命共同体、ここでの人間関係というのもかなり特殊である。ちょっと不謹慎かもしれないが、発想を変えれば病院ほど人間観察のサンプルに事欠かない場所はないのではないだろうか。先月、何でもない日のありがたみについて書いた矢先にこのような事態に陥ったのもなにか巡り合わせのように思える。突然にやってきた波乱怒濤の日々を乗り越えてみると、この季節の新緑がふだんの数倍もきらきらと目に眩しく感じられる。まだ父のいない実家の庭の池に睡蓮が咲き始めた。何でもない日が訪れるのもあともう少しだ。