DIARIO MENU

04/02
なんでもない日
磁気ベルトなるものを腰に巻いている。毎年春先にやって来る腰痛対策だ。もうほとんど回復しているけれど、大事をとってリハビリ中というわけ。今年の春は急にあたたかくなったと思ったら、またまた花冷えで冬の気温に逆戻りと繰り返されたので、我が腰痛も長引いてしまった。去年の暮れ、ヴェネツィアで凍った路面で滑り、尾てい骨をしたたか打ったのも少なからず影響したのかもしれない。それにしてもこの数週間、腰痛バーサンライフのシュミレーション状態で、バリアフリーの重要さを文字通り痛感。腰が痛くてぱっと起き上がれない、顔を洗うのもひと苦労、靴下を履くにも時間がかかる。くしゃみをするのも緊張する。掃除だってままならないし、台所に長く立っていられない、などなど途端に生活の骨組みまでもがたがたになってしまう。ふだん何気なくとっている行動がいちいち制約されて、さすがの?私も鬱々となりました。とほほ。第一何を考えていても、頭の中に「痛み」という雑音が入り込んできて集中できないのが困る。手すりのない階段や、つるつるの床などには恐怖を感じたものだ。体の調子が悪いとき、特に歯痛や腰痛など体のどこかが痛むとき、はじめて痛みのない生活のありがたさを思い知る。今は何の不安もなく買い物に行ったり、洗濯したりできるのがしみじみうれしく幸せだ。楽しい老後を迎えるためにも、この素朴にうれしい気持ちを忘れずに日頃から腰痛にならないよう気をつけなければ。ところが「喉もと過ぎれば」で、治ってしまうと痛かったときの情けなさを忘れてしまいがちだ。体の痛みに限らず、なんにもないふつうの一日のありがたさも、ふだん意識することはあまりない。朝起きて、あたりまえに一日が過ぎ、そしてまた何事もなく次の朝を迎える。それは何ものにも変えがたい幸せなことなのだ。去年の9月11日以来、失われてはじめてその大切さに気づいた人も多いのではないだろうか。

今朝、窓の前の桐の木が薄紫色の花を咲かせていた。どこかでシジュウカラの啼く声がする。いいお天気の日、さっぱりと乾いたリネンが気持ちいい。焼けたてのパンの香り。トマトソースがおいしくできた。面白い本を読みかけている。雨に濡れたベランダの新緑がきれいだ。洗いたてのシーツの間にすべりこむ。ひさしぶりの友達からメールが届いた。バスルームの石鹸があたらしい。今日はなんだか字がきれいに書ける。店先にみずみずしいアスパラガスが並んでた。窓ガラスをぴかぴかにした。鉢植えのミントのみずみずしい香り。電信柱の上にぴかりと三日月が出ていた。記念日じゃないけど、お気に入りのワインを開ける----。同じことの繰り返しに思える毎日だけれど、たくさんの幸せな瞬間がちりばめられている。なにか特別にうれしいことがあった日と同じように、なんでもない日も充実した気分を感じられたら幸せだ。泣いていても笑っていても、時間は平等に流れていく。幸せに大きさはない。どんなささやかなことも大きな喜びと等価でありたいと思う。不思議の国のアリスのなかにでてくる「きちがい帽子屋のお茶会」の名目は「なんでもない日を祝う」というもの。お誕生日は年に一回きりだけれど、その他364日のなんでもない日も同じくらい大事といって「なんでもない日バンザイ」と合唱するのだ。ルイス・キャロルが何を伝えたかったのかは分からないけれど、なんでもない日バンザイって言えるかなと、自分にときどき問いかけてみることにしている。