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02/12
LE RICETTE DELLA MAMMA
2003年から数年間、不定期に自宅でヴェネツィア料理の料理教室をしていました。料理教室といっても、当時から小さなエネルギーで暮らす「ヴェネツィア的生活」を標榜していたので、その実践編としてのレシピつきの食事会というもの。その後、オペラの制作などという道楽にはまったおかげで、しばし休止。実はこのブログを始めたのも、その代わりに発信というつもりもありました。昨年ボランティアや被災地支援活動を通じて知り合った皆さんからの要望に後押していただき、EL SAORを再開することにしたのです。久しぶりの再開ということもあって、メニューを何にしようかあれこれ悩みましたが、やはりヴェネツィア生活の最大の楽しみである「Ombra e cichetti」、つまりヴェネツィア版居酒屋Bacaroのヴィーノと酒肴のスタイルにしました。前菜風の料理をいろいろと食べ、ヴィーノを飲み、楽しくお喋りをするのが、なんといってもヴェネツィア的。もちろん、会の名前にもなっている名物料理のサオールは欠かせません。前日に築地に買い出しに行き、魚介を中心に仕入れました。昼下がりにまずはアペリティーヴォで乾杯し、プロシュットやオリーブをつまみながら、メニューと段取りを説明。料理はほぼ前もって作っておきましたが、ブザラ風のパスタソースと、ムール貝を実習することにしました。

EL SAORをするにあたり、決めていることがあります。それは、リチェッタはもちろん、私がヴェネツィアのマンマから学んだ通りのやり方を可能な限り忠実に守ることです。ここでは、ヴェネツィアの食生活を体験、共有したいと思っています。イタリアでは、田舎の大家族などはともかくとして、その家庭のマンマの味は実の娘へと垂直に伝わります。つまり姑からでなく実家のマンマからリチェッタを受け継ぐのです。イタリア男がいつまでたってもマンマの味を恋しがる根拠もここにあります。子供が息子ばかりの家ではマンマの味は行き止まりとなってしまいます。里帰りよろしくヴェネツィアに通っては、マンマの家に居候。寝食を共にするという言葉通り、毎日同じ食卓につくことが人の結びつきをどんなに深くするかを知ることになりました。あたたかい食事とヴィーノがあれば、人は幸せになり心も優しくなって通じ合うものです。マンマの料理には、生粋のヴェネツィア人としての心意気と家族のために傾ける情熱のすべてが込められています。リジ・エ・ビジ、鰯のマリネ、アサリやムール貝のチケッティ、パスタ・エ・ファジオイ、サオール、バカラ・マンテカート、小海老のニンニクマリネ、イカの墨煮にポレンタ---数えあげればきりがありません。いつの間にか私自身もマンマの味が一番と思うようになりました。我がマンマ・ロージィには娘がいません。彼女自身、誰かに料理を教えたのは、私たち夫婦がはじめてだったかもしれません。ならば、私がこの味をひき継ぎたいと思っています。ぽんと離れた飛び地のようなところに伝わることになるけれど、そのリチェッタは何としてでも残さねばなりません。

マンマの料理はたいへんシンプルなのですが、そのかわり手抜きは一切ありません。口癖は「Pazienza!忍耐」です。材料を吟味し、丁寧に下ごしらえし、きちっと手順をふんでいきます。仕上がりは限りなくやさしく、繊細な味です。家庭料理なのですから、当然毎日食べ続けられる味でなくてはなりません。目的の食材が手に入らなければその料理を諦めます。魚や野菜の種類がヴェネツィアとは異なるのは仕方ないので、できるだけ近い味に再現できるものを探します。例えば、ブザラ風ソースで使う海老は生の状態で赤い、甘みの強い水分の多いものが適しているので、解凍もののアルゼンチン産赤海老を使います。(あるいはボタン海老や甘海老でも)食べ方もヴェネツィア流を守ります。例えば、小海老の殻や足など日本人的には丸ごと食べてしまいたいものですが、ヴェネツィアでは決して食べません。ひしこ鰯の小骨などもしかり。「どうして?丸ごと食べたほうが美味しいのに」と、日本人たちは皆口を揃え、そして丸ごと食べてしまいます。実は私自身はじめはそう思いました。でも、今はきちっと外して食べています。何故か?そうしないとこの料理の本当の味ではないと思うからです。そして、伝統的な料理のリチェッタや成り立ちには、正当な意味があり、それを知ることが大事だからです。マンマの料理を自己流にアレンジせずに伝えること、それが私の使命であり、相手とその文化に対する敬意と思っています。