ヴェネツィア的生活>>実践編
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10.永遠なるマンマの味
文・写真/角井典子
「今日は特別料理、スペチャリタを作るからね」台所で朝のカフェをしていると、マンマはいつにもましてはりきっている。ここでは一日のうちお昼が一番重たい伝統的なスタイルなので、すこし凝った料理となると朝からその支度にとりかかる。スペチャリタならばひと言も聞き逃してはならない。さっそくカメラと、メモ用のノート、それから辞書といういつものセットを用意してスタンバイ。初めはいちいち料理の写真を撮られるのを面倒がっていたマンマだけれど、この頃では慣れたもの。ちょうどいいタイミングで手を止め、写真を撮りやすいように工夫してくれる。(おまけに私がいい加減に書いたメモのスペルもしっかりチェック)このときも、茹でたじゃがいもを潰して粉と合わせニョッキの生地を作る工程を丁寧に説明していく。マンマのスペチャリタは、ニョッキの生地にほうれん草のピュレを巻きこみ、ガーゼで包んで茹で上げたもの。ロールケーキのように切り分け、特製ラグー(いわゆるミートソース)とパルミジャーノチーズをたっぷりかける。ふだんの料理だって充分手間ひまかかっているけれど、たしかにこれは更なるテクニックを要するようだ。出来上がる頃合いをみはからい、テーブルクロスを広げて食卓の準備。
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そこへパパがマガゼンから持って来たヴィーノを置く。ほかほかのニョッキが茹で上がるやいなや「セ・マニャ!さあさあ早くお食べ」とマンマにせかされながら、皆が席につく。じゃがいもの甘みにラグーとパルミジャーノがふんわり溶けあい、夢のように幸せな味。かなりのボリュームのプリモピアットだけれど、あまりの旨さにおかわりしてしまう。セコンドピアットはモエケ(産卵期のソフトシェルの小蟹)のフリット。今日はご馳走だなとパパもご機嫌だ。時間は午後1時すぎ、リネンのカーテン越しに柔らかな日がさしている。こんなふうにまるで家族みたいに食卓を囲んでいると、人の出会いの不思議さを覚えずにはいられない。「ところでこのスペチャリタはなんていう料理?」と訊いてみたら、巻きニョッキなどと適当に呼んでいるものの、なんとちゃんとした名前はないのだという。マンマのマンマそのまたマンマからという一家口伝、極めつきのリチェッタ(レシピ)なのだ。
イタリアでは、ほぼ例外なくその家庭のマンマの味は娘へと垂直に受け継がれる。イタリア男がいつまでたってもマンマの味を恋しがる根拠もここにある。奥さんは姑からでなく実家のマンマからリチェッタを習うからだ。だから子供が息子ばかりの家ではマンマの味は行き止まりとなる。里帰りよろしくヴェネツィアに通っては、短期間ではあるけれどマンマたちと一緒に暮らすようになって数年。昔ながらのヴェネツィア気質に触れ、その魅力にすっかりひきこまれてしまった。寝食を共にするという言葉通り、毎日同じ食卓につくことが人の結びつきをどんなに深くするかをいまさらながら実感している。あたたかい食事とヴィーノがあれば、人は幸せになり心も優しくなって通じ合う。マンマの料理には、生粋のヴェネツィア人としての心意気と家族のために傾ける情熱のすべてが込められている。いつの間にか私自身もマンマの味が一番と思うようになってしまった。マンマ・ロージィには娘がいない。ならば、私がこの味を引き継ごうではないかと思っている。ぽんと離れた飛び地のようなところに伝わることになるけれど、マンマのリチェッタは何としてでも残さねばならない。リジ・エ・ビジ、鰯のマリネ、アサリの蒸し煮、パスタ・エ・ファジオイ、サオール、バカラ・マンテカート、小海老のニンニクマリネ、イカの墨煮にポレンタ---数えあげればきりがない。沈みゆくヴェネツィア、様々な歴史的文化財の保存が問題になっている。この世界で唯一の奇跡的な町の佇まいとともに、ヴェネツィアのマンマの味もまた永遠であって欲しいと心から願っている。
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角井典子写真
角井典子プロフィール