ヴェネツィア的生活>>実践編
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6.オンブラ・エ・チケッティ
文・写真/角井典子
写真ヴェネツィアのバールで「オンブラ(日陰)」とひと言いえば、間髪入れずにさっと一杯のヴィーノが出てくる。この暗号めいた言葉はその昔、サン・マルコ広場のカンパニーレ(鐘楼)の日陰にあったヴィーノ売りに由来し、ひいてはヴィーノをちょいと一杯飲って休むという意味になったとか。さすがは筋金入りの呑んべえヴェネツィア人、日の高いうちから堂々と酒を飲んでいたというわけだ。それにしても「日陰を飲む」なんて、ちょっと粋ないいまわし。(ただし、これはあくまでバリバリのヴェネツィアっ子がやってこそキマるような気がして、私はまだ使ったことがない)ヴェネツィアのバールやバーカロ(より居酒屋的な雰囲気の店をさすヴェネツィア方言)のカウンターにはずらりと料理の皿が並び、まるでヴェネツィア料理図鑑のよう。鰯の甘酢漬け、ネルヴェッティという牛スジに茹でたトリッパ(白モツ)、シャコや小イカ、蛸のマリネ、ズッキーニやカルチョフィに豆などのオイル漬け、ハムやサラミ等々、どれもこれも食べてみたくていつも目うつり、迷いに迷う。注文すると少しずつ小皿に取り分け、串を添えて出してくれる。これがヴィーノのアテ、ヴェネツィアではチケッティといういわゆるおつまみ。つまみぐいの要領であれこれ食べられて楽しいし、目の前にあるものを指さして注文するので間違う心配もない。しかも、どれも一皿100円くらいからと唖然とするほどのお値段。バールにはいつでもこのオンブラとチケッティがあり、トラメッツィーニ(サンドウィッチ)やパニーニもよりどりみどりだから、これで軽い食事にもなる。毎日路地から路地へと歩き回っている旅行者にとって、まさしくオアシスのようなありがたい存在だ。
写真
写真もちろんバールは地元の人々にとってもなくてはならないもの。まず朝は出勤前に立ち寄り、ブリオッシュとカフェラッテで朝食。お昼時ともなれば、どっと押し寄せる客で店はごったがえす。夕方にはアペリティーヴォ(食前酒)を飲る常連で賑わい、さらに遅い時間にはディジェスティーヴォ(食後酒)やヴィーノで長々と居座る。どの時間帯でも利用できる多機能の飲食店として便利なことこのうえない。が、なにより肝心なのはここでのお喋り。ヴェネツィア中にバールはそれこそ無数にあるけれど、皆それぞれに「ミオ・バール」つまり自分のバールと呼んで通うなじみの店がある。そこへ行けば、店主はもちろん誰かしら顔見知りがいて、おきまりの噂話や新聞ネタ、カルチョの話題、それに新しく仕入れた小話などでおおいに盛り上がる。同時にレガッタ(ボートレース)の漕ぎ手を募集したり、祭りの仕切りなど情報交換の場としての役割も大きい。ようするにバールは家のサロンの延長、誰もが生き生きと自己表現する大切な社交の舞台なのだ。日夜繰りひろげられている常連たちの名演、熱演を見るにつけ、おおげさでなくヴェネツィア人からバールを取り上げたら生きていけないのではないかと思ってしまう。

写真オンブラと並びヴェネツィアのバールならではのもの、スプリッツ。プロセッコなどヴィーノ・ビアンコにアペロルやカンパリなどのリキュールを加えた、一見なんの変哲もない代物だけれど、何故かヴェネツィアでしかお目にかかれない。マンマのお気に入りはカンパリ入りで、バールでのアペリティーヴォといえばいつもこれ。簡単に作れるんだから家で飲んだりしないの?と訊いてみたら「お〜、ウチで飲むなんて考えてみたこともない。バールでスプリッツを飲むのを楽しみに一日やってるんだから、そんなのつまらないじゃないか」マンマも生粋のヴェネツィア人。やっぱりバールなしでは生きていけないらしい。
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