ヴェネツィア的生活>>実践編
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2.エル・サオール
文・写真/角井典子
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洗濯物がはためく中庭の眺めは下町そのもの
ヴェネツィアのサンタ・ルチア駅に着く。ここから目指す家まで荷物を曳きながら歩いていくのが常だ。近所のバルビエレ、床屋の前を通りかかると、目ざとく私たちを見つけた店の主人が飛び出してきた。チャーオ、またあの家にやって来たのかとさっそくの挨拶。このことを、マンマに話したら「あの床屋に見つかったら、もう皆に伝わってるね」あのお喋りめと言いたげだ。床屋がお喋りなのは、どうやらいずこも同じらしい。でも床屋をどうこういう以前に、ここではすべてが筒抜け。なにしろマンマを筆頭に近所のおばさんたちときたら、中庭に開いた窓越しに大声でチャーオ!と始まって、延々とお喋りが続くのだ。私たちの滞在中は格好の話題を提供しているから、あの子たち(マンマにかかれば私たちはバンビーニ、子供たちなのだ!)がいつ来たとか、お土産は何々で、今日はどこそこへ行き、果ては何をいくらで買ったらしいとかすっかり報告してしまう。次に誰かに道端で会えば、相手はこちらのことは先刻承知という具合だ。家にも誰彼とやって来ては、ついでの買い物の清算、ちょっとお味見、お裾分けなど、まさに昔ながらのご近所づきあい。そのたびにまた強力に喋りまくるので、結局は一日中喋りっぱなしだ。
ただでさえこの調子だから数人が集まったときの喧騒たるや、初めて聞いたら喧嘩しているのかと思うくらい。たしかに皆自分の意見を主張するのに夢中で、一種闘いの様相を呈する。そうそうその通りと誰かに同調することはめったになく、いやいやそうじゃない、私に言わせればと話に割りこんでくる場合が殆ど。しかもいっぺんに喋りだすので論点はすぐ混沌となってしまう。ある週末の夜、マンマの甥夫婦や私たちを含めた総勢8人での夕食となった。わいわいがやがや最初から騒がしい。よくイタリア人と宗教、政治の話題をしてはならないというが、ヴェネツィアではこれにお金の話も禁句に加わる。しかし、このときは見事にこの三つのタブーをクリアしてしまった。要するにこれらの話が大好きなのだ。折しもイタリア総選挙直前である。ヴィーノの瓶が次々と空になるにつれヒートアップ、口角泡をとばす勢いに皆の血管が切れるのではとヒヤヒヤだが、実はこれがなごやかに会話を楽しんでいる状態なのだ。時たま誰かがきわどい小話をはさんだりして大爆笑。最後には、なんだかんだいってもヴェネツィア暮らしはいいもんだということになり、舟を漕ぎながら歌う古い歌「EL SAOR」エル・サオールを合唱してお開きとなった。エル・サオールとはヴェネツィアの名物料理の鰯の甘酢漬けのこと。シンプルなメロディーのその歌は「〜ヴェネツィアにいるなら、さあよくおきき、仕事をかえて漁師になるといい。そしたら月の半分はうまいサオールが食べられるのさ〜」ヴェネツィア暮らしはやめられないというのは、今も昔も変わらない。
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